今日は余裕がありそうです。

 

今日は、仙台一高、仙台二高の学園祭。

学校の雰囲気を体感するために、麻布学院は、志望校のイベントに、積極的参加を推奨しているので、今日は、かなりの生徒が休みになると思います。

塾生のほとんどが、仙台二高、仙台一高を志望しているので、出来れば両校の学園祭に行ってみて、雰囲気の違いを肌で感じ、志望校最終決定につなげて欲しいと思います。

特に受験生にとって、志望校の見学は大切。

オープンスクールはもちろんとして、学園祭は、生徒主導のイベント。

ですから、より近い目線で、志望校を感じることができると思います。

 

そんな体験が、志望校に対する、憧れや強い願望につながり、さらなる強い志望校への意思を固めてくれると私は思います。

 

今年春の受験生には、東北大学の購買部で売られているシャープペンと、京都大学の購買部で売られている定規を、卒業生に頼んで、受験生全員にプレゼントしました。

全員、お守りのようにそれを会場に持って、受験に挑みました。

これも、大学内でしか手に入れることが難しい物を、高校三年間身に着けることにより、大学への願望を、強く持ってもらいたいからです。

 

今日は、高校の雰囲気を、自分で感じながら、楽しんで来てもらいたいと思います。

憧れが、強い意志に変わることを祈って。

 

救うという根幹

 

今日は、ほとんどの塾生が文化祭。

定期テストも近いのですが、普段、頑張っているのだから、今日ぐらいは楽しんで欲しいと思っています。

定期テストの問題についてですが、先に終わった仙台市中心の「K」中学の問題。

理科に、「開成」の入試問題が出題されていました。

他の教科も、家庭学習帳を、反復して暗記しても、上位の点数は絶対に獲得できない作りでした。

 

こういった問題であれば、定期テストも受験を占う大切な指針になりえると私は思います。

同じ公立中学校で、受験合格の格差が激しいのは、こういった学校側の方針の違いにあると思います。

 

テストの点数を横並びにさせないことで、評価が「相対評価」に近づきます。ばらつきがあれば、90点に評定3はつきません。

ですから、学力の高い生徒に、自然と高い評価がつきやすい。

 

家庭学習帳メインの出題であれば、ある程度の人間の点数が、横並びになります。

そうなった場合は、授業態度、積極性など、出題する側の、主観的な要素が深く評定に反映します。

 

オリンピックにしろ、ワールドカップにしろ、審判は、公平で公正なジャッジを心がけるべきです。そうあって当たり前。

しかしながら、国際大会の最高舞台であっても、主観が絡めば誤審につながります。

直近のワールドカップ予選で発生した、いわゆる「中東の笛」のように。

 

それを防ぐために、最近は、いろいろな競技で、デジタル判定が採用されてきました。

機会は常に客観的です。

 

毎回見て思うのは「K」中学の定期テスト問題の中に、この客観的視点になれる問題が、随所に散りばめられているということ。

家庭学習帳以外、しかも受験問題ともなれば、実力差がはっきりと点に表れます。

その上で、授業態度や積極性を加味し、低い評定になる場合でも、よほどの事がなければ、90点は4という評定になるのでしょう。

 

本来、授業態度や積極性は、余程のことでなければ、「救う」ために存在するのであって、「落とす」ために存在するのではないと思います。

文部科学省が、絶対評価を推し進めたのは、この考えが根幹にあったからです。

 

それが、「落とす」ために存在するとすれば、本末転倒です。

音感がないならテストで救う。

運動神経がないからテストで救う。

美的感覚がないから授業姿勢で救う。

実技教科の絶対評価だって存在しなければならないと思います。

 

我々塾は、成績を上げる、学力を上げることが主要命題です。

数字に裏合うちされる、ある意味、方向性が固定された職業です。

 

しかし、学校の先生方は、そこに生活指導、部活、いじめの問題など、様々な仕事が存在します。

 

しかし、同じ根幹にあるものは「救う」ということです。

共通する部分はあるのだと思います。

 

70~80%を家庭学習帳から、残りをオリジナル問題。そのうちの10%を受験問題とすれば、多くの生徒が救われると思います。

主観、客観の両方の良い面を活かして。

 

「K」中学の定期テスト問題は、まさにそれでした。

塾の立場であっても、先生方から、学びをいただいた気持ちです。

 

「救う」ということを、私も考えなければなりません。

成績の高い生徒ばかりではなく、成績の低い生徒をもっと救う方法を、考えなければ・・・

そういったことを考えさせて頂けた。

私も「救い」を受けた気持ちです。

 

新たな気持ちで頑張ります。

一人でも、多くの生徒を受験で「救える」ように。

 

塾の席順。

 

麻布学院の席順は、入塾の早い遅いや、ヤル気などで決めることは決してしません。

そこにエコひいきも、事情も絡みません。

麻布学院の席順は、模擬テストの点数順に決まります。

 

点数を多く獲得した生徒は、誰よりも努力をしてきた生徒であり、授業を先生の目の前で受ける権利があると私は考えます。

そこに、入塾の早い遅いや、思い入れが存在すべきではありません。

生徒の努力に対いて、常に公平で厳格であるべしと私は常に心がけています。

 

この点数で席順が決まる方式を導入して以来、塾内では競争意識が生まれ、生徒は、より前の席になることを強く望み、後ろの席になれば泣き、前の席になれば自分を本気で誇れるようになりました。

 

ゆとり教育導入時に、「競争は悪」という風潮が広がりました。

学校の評定も、今は「絶対評価」。点数に関わらず、授業態度や積極性などに重きをおく学校が存在します。

 

しかし、社会に出たとき、競争がない職種はありません。

競争を否定してからの、我が国の学力は、あっという間に国際社会で取り残されてしまいました。

しかし、この風潮の逆を言えば、常に競争にさらされる者は、他者と大きく差をつけることができるのです。

ですから、麻布学院は、成績で席順が決まります。

 

もう1つ、「絶対評価」では、学力での単純評価がなされません。

定期テスト70点の生徒が評定5。90点の生徒が評定3。

このような事例が多々あります。

生徒の心に宿る不満は、いつしか積み重なり、やがて学習意欲を失うことになりかねません。

ですから、せめて塾内では、性格や表現力などの、生まれ育った資質ではなく、努力が1番反映する、点数で評価してあげようと考えました。

 

お互いを意識し、切磋琢磨することで、上位校合格のため必要な学力が、ほとんどの生徒に備わります。

今年の8月模試で言えば、24名中、23名が偏差値63(仙台三高に該当)以上、そのうち20名は偏差値66以上(仙台二高、仙台一高のいずれかに該当)という結果につながりました。

 

競争を恐れず、挑み続ければ、結果がついてくるという証です。

 

高いレベルでの競争。それが麻布学院にはあります。

入塾時、どのような成績であれ、志望校合格に必要な学力を生み出す秘訣の1つが「競争」にあると実績で示すことが出来てると思います。

 

最初がどんな成績であろうと、麻布学院は、忠実に志望校合格に全力を尽くします。

今、まさに志望校で悩む保護者の方、生徒さんがいれば、お電話下さい。

1週間、無料体験実施中です。

入塾するしないに関わらず、生徒全員が本気の雰囲気を感じることが出来るだけで、受験への気持ちが、大きく変化すると思います。

 

 

学校、創設以来の天才?

塾開設以来、中学校の先生方が、「学校創設以来の天才」と呼ぶ生徒が、数名塾に在籍していました。

学校始まって以来の天才は、そんなにいるのだろうかと、微笑ましくなったものです。

 

しかしながら、彼らは天才ではありませんでした。

本当の天才は、そもそも、完璧な学習は出来ないものなんです。

天才は、人よりも発想力や、記憶力が優れています。

優れすぎている分、少しの努力で、ある程度の成績まで来てしまいます。

ですから、反復や予習など、学校の定期テスト向きな勉強は、あまりしないものなのです。

全てのテストをぶっつけ本番で受けている状態です。

それでも、天才と呼ばれる人間は、ある程度、素晴らしい結果を出してきます。

しかし、天才は完璧ではない。

反復が足らないので、必ず大きなミスがあります。

 

では、学校の先生が言うところの、「学校創設以来の天才」とは、どのような生徒なのか?

一言で言えば、能力が別段高い生徒達ではありませんでした。

塾のライバルに、天才と呼ばれる部類の生徒がいて、その生徒と比較すると、平凡としか言いようがない生徒達でした。

 

しかしながら、点数で見たとき、彼らは完璧。

余裕すら感じられるぐらい、淡々と、校内1位や、みやぎ模試県内1位を重ねていきました。

彼らは、天才ではありません。

塾内で、本物の天才を目の当たりにし、負け続けた時期に耐え忍び、天才が1ページ問題をこなすのに対し、彼らは、同じ時間に50ページをこなすような生徒達でした。

「天才への対抗心。」

それを悟られないために、余裕の顔を周囲に振りまいていただけで、その裏にある、「悲しみ」「悔しさ」「嫉妬」「怒り」「絶望」を、私には常に見せてくれました。

 

彼らは、「白鳥の例え」そのものな人間でした。

白鳥は優雅に水面を泳いでいるように見えても、水中では、その優雅さでは考えられないほど、足をもがいているのです。

 

水面の上の優雅な姿が学校の彼ら。

塾や家庭では、泥臭く、努力に努力を重ねる水中でもがく白鳥。

 

その積み重ねにより、彼らは、本物の「学校設立以来の天才」へと変貌しました。

泥臭く、しがみつき、努力を重ねに重ねて。

 

そんな生徒が数名いました。

麻布学院には、本当の天才が必ず毎年います。

しかし、彼らは、学校開設以来の天才にはなれません。

あまり負けを知らないからです。負けたとしても、悔しいという感情がわく程には勉強をしなくても、ある程度の結果がでるから。

 

しかし、学校開設以来の天才は、負けの中から生まれ、泥臭い努力が育て、最後に実を結び輝きます。

 

麻布学院設立以来、3人。

そう呼ばれた生徒が存在しました。

天才は毎年いても、泥臭いまでの努力を重ねる学校設立以来の天才は、3人。

 

学校設立以来の天才」は、努力する人間の集団である、麻布学院であったとしても、そう簡単には生まれないのです。

次の出会いが、いつになるか楽しみです。

私が生きている間、塾を続けていられる間に、そんな出会いがまたあれば、とても幸せなことですね。