救うという根幹

 

今日は、ほとんどの塾生が文化祭。

定期テストも近いのですが、普段、頑張っているのだから、今日ぐらいは楽しんで欲しいと思っています。

定期テストの問題についてですが、先に終わった仙台市中心の「K」中学の問題。

理科に、「開成」の入試問題が出題されていました。

他の教科も、家庭学習帳を、反復して暗記しても、上位の点数は絶対に獲得できない作りでした。

 

こういった問題であれば、定期テストも受験を占う大切な指針になりえると私は思います。

同じ公立中学校で、受験合格の格差が激しいのは、こういった学校側の方針の違いにあると思います。

 

テストの点数を横並びにさせないことで、評価が「相対評価」に近づきます。ばらつきがあれば、90点に評定3はつきません。

ですから、学力の高い生徒に、自然と高い評価がつきやすい。

 

家庭学習帳メインの出題であれば、ある程度の人間の点数が、横並びになります。

そうなった場合は、授業態度、積極性など、出題する側の、主観的な要素が深く評定に反映します。

 

オリンピックにしろ、ワールドカップにしろ、審判は、公平で公正なジャッジを心がけるべきです。そうあって当たり前。

しかしながら、国際大会の最高舞台であっても、主観が絡めば誤審につながります。

直近のワールドカップ予選で発生した、いわゆる「中東の笛」のように。

 

それを防ぐために、最近は、いろいろな競技で、デジタル判定が採用されてきました。

機会は常に客観的です。

 

毎回見て思うのは「K」中学の定期テスト問題の中に、この客観的視点になれる問題が、随所に散りばめられているということ。

家庭学習帳以外、しかも受験問題ともなれば、実力差がはっきりと点に表れます。

その上で、授業態度や積極性を加味し、低い評定になる場合でも、よほどの事がなければ、90点は4という評定になるのでしょう。

 

本来、授業態度や積極性は、余程のことでなければ、「救う」ために存在するのであって、「落とす」ために存在するのではないと思います。

文部科学省が、絶対評価を推し進めたのは、この考えが根幹にあったからです。

 

それが、「落とす」ために存在するとすれば、本末転倒です。

音感がないならテストで救う。

運動神経がないからテストで救う。

美的感覚がないから授業姿勢で救う。

実技教科の絶対評価だって存在しなければならないと思います。

 

我々塾は、成績を上げる、学力を上げることが主要命題です。

数字に裏合うちされる、ある意味、方向性が固定された職業です。

 

しかし、学校の先生方は、そこに生活指導、部活、いじめの問題など、様々な仕事が存在します。

 

しかし、同じ根幹にあるものは「救う」ということです。

共通する部分はあるのだと思います。

 

70~80%を家庭学習帳から、残りをオリジナル問題。そのうちの10%を受験問題とすれば、多くの生徒が救われると思います。

主観、客観の両方の良い面を活かして。

 

「K」中学の定期テスト問題は、まさにそれでした。

塾の立場であっても、先生方から、学びをいただいた気持ちです。

 

「救う」ということを、私も考えなければなりません。

成績の高い生徒ばかりではなく、成績の低い生徒をもっと救う方法を、考えなければ・・・

そういったことを考えさせて頂けた。

私も「救い」を受けた気持ちです。

 

新たな気持ちで頑張ります。

一人でも、多くの生徒を受験で「救える」ように。