人間、生まれてすぐは、自分の命を一番に考える。
誰かを頼り、弱いものとして、時にそれを演じながら、自分を庇護する存在に依存するものだ。
自我が目覚めるころには、庇護者から少しずつ距離をとり、自分の力で自分を守る方法を模索する。
それは、スポーツだったり、言葉の力だったり。
学力だったりである。
つまり、自我が生まれる中学生にとって学力は、将来、生き抜くための武器になるものの1つ。
それらの、自分を最大限に守るべき武器が、備わっていない状態であるから、中学生は義務教育というこになる。
つまり、中学3年間で、自分を最大限に活かし、そして守る手段を学ぶことが、大事なのだ。
スポーツにそれを見いだせば、高校では、その技術を活かして自分を守り、主張し、居場所を見つける。
スポーツに、活かす場所を見出すと、その場所は、狭く限定される。
一生において、自分を守る手段とするためには、最低限、全国レベルが要求される。
そこで名をはせれば、有名大学や、有名企業、果てはプロと、居場所が広がるだろう。
学力に、自分を守る術を見出した場合は、どうであろうか?
まず、次の選択肢となる高校は、限定されることがない。
学問は無限に用意されており、将来職業に直結するものが選べるという利点がある。
文系、理系だけで2つ。
理系だけでも、医学、工学、理学、生物学、農学など様々だ。
つまり、中学3年間の中で、将来を迷う時間が十分に残されている。
周りの大人が、
「将来、何になりたい?」と、具体的な答えを求めた場合、中学生が選択できる将来像のほとんどが、学力が関わるものとなる。
であるならば、将来の自分のために、十分な学力を身に着けなければならないのであるが、そこは義務教育の範囲。
中学生は、自我が生まれたばかり。
自分を守る将来の武器を探すことよりも、今の自分を守ることを優先すものだ。
つまり、10年後の自分よりも、明日の自分に視点を置く。
10年のスパンで自分を考えれば、必ず辛い事や、苦しい事が付きまとうものである。
「10年後の自分に武器を与えるための、今は修行時代。」
そんな長いスパンで考えられる中学生は、ほとんどいない。
であるから、大人が生きる力を身に着ける大切さを伝えなければならないのだ。
何故なら、大人は長いスパンで人生を考えなければならない場面を、いくつも通過してきているはずだから。
人間、年齢を重ねれば、守るべきものは増える。
最初は自分。力が増すたびに両親や兄弟。仕事。そして自分の家庭。
どんどん増えていくものだ。
仕事1つとっても、私の場合、「塾」と「社員」、「生徒」。
無限に、守るべきものが増えていく。
大抵の場合、今まで生きてきた、自分に備わる武器で解決できるが、時には、大きな選択を迫られる場合もある。
例えば「塾」と「生徒」
2つの大切な要素があり、そのどちらかを優先しなければならないとなった時、10年前の自分の努力の甘さを呪う事となる。
「経済力」「話術」「経験」「信用」「人間関係」に、努力を怠った結果が、大切な2つの要素のどちらかを優先しなければならない状態を作るのである。
中学生という存在も、いつかは、大きな選択肢にぶつかるのだ。
重要な要素を、出来る限り守れる術を、自分の失敗や成功、今まで関わった人たちの成功や失敗をまじえ、生徒に伝えることが、大人として一番重要なこと。
私はそう考えている。