塾開設以来、中学校の先生方が、「学校創設以来の天才」と呼ぶ生徒が、数名塾に在籍していました。
学校始まって以来の天才は、そんなにいるのだろうかと、微笑ましくなったものです。
しかしながら、彼らは天才ではありませんでした。
本当の天才は、そもそも、完璧な学習は出来ないものなんです。
天才は、人よりも発想力や、記憶力が優れています。
優れすぎている分、少しの努力で、ある程度の成績まで来てしまいます。
ですから、反復や予習など、学校の定期テスト向きな勉強は、あまりしないものなのです。
全てのテストをぶっつけ本番で受けている状態です。
それでも、天才と呼ばれる人間は、ある程度、素晴らしい結果を出してきます。
しかし、天才は完璧ではない。
反復が足らないので、必ず大きなミスがあります。
では、学校の先生が言うところの、「学校創設以来の天才」とは、どのような生徒なのか?
一言で言えば、能力が別段高い生徒達ではありませんでした。
塾のライバルに、天才と呼ばれる部類の生徒がいて、その生徒と比較すると、平凡としか言いようがない生徒達でした。
しかしながら、点数で見たとき、彼らは完璧。
余裕すら感じられるぐらい、淡々と、校内1位や、みやぎ模試県内1位を重ねていきました。
彼らは、天才ではありません。
塾内で、本物の天才を目の当たりにし、負け続けた時期に耐え忍び、天才が1ページ問題をこなすのに対し、彼らは、同じ時間に50ページをこなすような生徒達でした。
「天才への対抗心。」
それを悟られないために、余裕の顔を周囲に振りまいていただけで、その裏にある、「悲しみ」「悔しさ」「嫉妬」「怒り」「絶望」を、私には常に見せてくれました。
彼らは、「白鳥の例え」そのものな人間でした。
白鳥は優雅に水面を泳いでいるように見えても、水中では、その優雅さでは考えられないほど、足をもがいているのです。
水面の上の優雅な姿が学校の彼ら。
塾や家庭では、泥臭く、努力に努力を重ねる水中でもがく白鳥。
その積み重ねにより、彼らは、本物の「学校設立以来の天才」へと変貌しました。
泥臭く、しがみつき、努力を重ねに重ねて。
そんな生徒が数名いました。
麻布学院には、本当の天才が必ず毎年います。
しかし、彼らは、学校開設以来の天才にはなれません。
あまり負けを知らないからです。負けたとしても、悔しいという感情がわく程には勉強をしなくても、ある程度の結果がでるから。
しかし、学校開設以来の天才は、負けの中から生まれ、泥臭い努力が育て、最後に実を結び輝きます。
麻布学院設立以来、3人。
そう呼ばれた生徒が存在しました。
天才は毎年いても、泥臭いまでの努力を重ねる学校設立以来の天才は、3人。
「学校設立以来の天才」は、努力する人間の集団である、麻布学院であったとしても、そう簡単には生まれないのです。
次の出会いが、いつになるか楽しみです。
私が生きている間、塾を続けていられる間に、そんな出会いがまたあれば、とても幸せなことですね。