人間は、誰もが向上心の塊ではない。
少なからず、それを持てたとして、継続して向上心を維持するのは難しい。
ことに幼児期に、学習面で親や、周囲の人間から、大きな期待をかけられてこなかった生徒には、顕著にその傾向がみられる。
ある一定の地点まで、向上心や使命感を持続できても、そのある地点は、最初から上位校を目指している人間にとって「普通」の領域であるのだ。
しかし、期待を持たれてこなかった生徒にとって、その領域は無理をして到達した地点なのである。
マラソンに例えると、上位集団は、優勝を期待される招待選手や、外国人選手の争う場で、その駆け引きも複雑であり、お互いを意識しあいながら集団を形成している。
そこに、招待選手ではなく、白いゼッケンの一般参加選手が、自分のペースを考えず、無心で追いついて来た。
追いついたのは良いのだが、周りはまだ余力を残している雰囲気が漂い、沿道は招待選手達への期待があふれている。
そこで思う。
このまま無理なペースで、この集団についていたとして、自分は優勝を目指している訳でもなく、場の空気に乗せられて、体力任せに追いついただけの一般参加。
先頭集団の人たちは、期待を背負い、優勝を目指してトレーニングして参加した人間ばかり。
今、自分を囲んでいる人間たちは、必ずまだ余力を残している。自分の体力では、必ず置いて行かれるはず。
このまま、この集団にいて、何かあるのだろうか?
意味があるのだろうか?
そう考えた瞬間から、自分が非常に場違いな存在に見えてくる。
このマラソンには参加してみただけで、軽い気持ちで優勝すると言ってはいたけれど、このトップ集団の人たちとは違い、背負うものが違う。
自分は、彼らのような期待は向けられていない。ここまで雰囲気に乗せられて、何となくこの集団にいるだけ。
何の意味があるのだろう・・・・
今まで無意識に前を目指していた人間が、そこに到達した瞬間に必ず浮かぶ疑問。
迷いながら走るので、何度も遅れそうになり、フォームも乱れて、苦しくなる。
周りの人間は、余力があるように見え、自分など意識していない。
もういいだろう・・・自分は場違いだ・・・・
そう迷っている瞬間、一人の招待選手が集団から遅れ始める。
彼ほどの人間が諦めるペースなら、自分はもういいだろう。
どうせ、この先、駄目になるのだから。彼とともに集団から落ちても、誰からも批難されない。
ここまで頑張ったじゃないか・・・・
そして集団から落ちて行く。
一緒に、一度は集団から落ちた招待選手が、歯を食いしばり、トップ集団に追いつこうとペースを上げている。
しかし、それに着いて行こうとは思わない。
自分にはもう、力が残っているとは思えないし、特に誰かが期待している訳でもなく、自分すら自分に期待していなかったのだから・・・・
周囲が期待しない人間は、自分自身にも期待しなくなり、自分に甘くなる。
もっと酷いことに、期待されている側の人たちが強いられる、苦労や辛さを見ると、期待されないことへの安心感が生まれる。
そして、無意識に力を抜く癖がついてしまう。
向上心を持続させるのは、難しい。
だけど、考えてみてほしい。
先ほどのマラソン。
招待選手も集団から遅れるペースであるのに、君は着いていたではないか!
走りながら、集中もせずに、迷う余裕すらあったではないか!
トップ集団の人間は、無心で走り、彼らも同じく疲弊しているんだ。
君と彼らの違い。
自分が自分に期待しているか、していないかだ。
受験とマラソンは似ている。
体力維持、健康維持のため参加する者もいれば、参加することに意義をもつ人間もいる。
しかし、先頭集団は、我慢と向上心の維持、駆け引きと技術を駆使し、体力と精神力を消耗しながら戦っている。
自分の子供を成長させたいならば、そして人生の上位集団で戦える人間になって欲しいと願うならば、期待してあげましょう。
周囲の人間は、子供の過去の姿を一度忘れてあげて下さい。
そして、今に期待してあげて下さい。
過剰なほどに期待してあげて下さい。
彼らが、自分自身に期待ができるその日が来るまで、期待してあげて下さい。
無名の選手を、金メダルに導く指導者は、本気で期待するのがとても上手い人なんです。