麻布学院は宮城野区原町に所在します。
開設から数年間、麻布学院の毎日授業という考え方は、この地域よりも上杉山や五橋など、教育熱が高い地域に適していると業界の方々から何度もアドバイスされたものです。
麻布学院が所在する地域の中学校は、塾開設当初、荒れていました。
今ではごく普通の中学校ですが、当時はナンバースクール合格者はごくわずかで、仙台一高と仙台二高の合格者は年に1名でるかでないか。
離任式の会場で、退職される校長先生が
「あなたたちは、仙台市の学力テストで最下位でした。」と言い放つ始末だったのです。
それと並行するようにこの地域から塾がどんどん撤退を決めていた時期とも重なりました。
麻布学院が入るこの建物も、仙台市で中堅ぐらいの規模があった塾が撤退を決めた建物です。
私は当時、大手塾から独立し、違う地域で塾を開設しており、初年度には仙台一高2名、慶応女子1名、宮城一女理数1名など、自分がやりたかった個人塾であっても上位校を狙う塾というコンセプトが成功しそうになっていました。
着実に生徒も集まり、やりたいことが出来る喜びを感じていたと思います。
そんな時、たまたま生徒から勧められて見たドラマがありました。
「Dr.コトー」という医療ドラマです。
過去の過ちから学閥を離れ、天才的医療技術を持ちながら離島で島民の信頼を得るまで必死に戦い、環境に恵まれない中でも卓越した技術で島民の病気と闘い、信頼を得て行くドラマです。
私はこの主人公に共感し、この主人公に憧れを持つようになりました。
そんな時に飛び込んできたのが、先に書いた校長先生の言葉と中堅塾の撤退です。
撤退した建物に麻布学院が入れば、当時メインになっていた中学校からの生徒は望めなくなります。遠すぎるからです。
それと、移転した場合にかかる費用も多額のものになります。
毎日塾があるという麻布学院の考えが、この地域で受け入れられるはずはないという反対意見が多数でした。
ですが、私は当時、Dr.コトーになったつもりでいたのか、反対を押し切りこの地域に塾を移転しました。
それと同時に、大手塾が2つこの地域から撤退し、全国に教室がある塾2つも撤退いました。
この地域は当初、中学1年生から塾に通う生徒が少ないという特徴と、中3生になり、部活が終わってから受験を考える保護者が多数派。
全国大会出場レベルの部活が3つあり、その部活が多数の生徒達を抱えていましたので学業に身が入る状態ではありませんでした。
市内に複数教室をもつ個人塾も撤退し、近くに今でもある中堅塾は、この地域の学校ではなく、隣の地域の学校をメインにしていまいた。
つまり、この近隣中学校は、仙台市の中心部にありながら、次々と塾が撤退する状態まで荒れていたのでしょう。
だからこそ私は強く思いました。
この地域で必死に数字と結果、実績を残し、地域から信頼を得て必ず塾業界のDr.コトーになってみせると。
最初は中2生が8人、中1生が2人からの寂しいスタートでしたが、その8人しかいなかった学年から宮城一女理数1名と仙台一高1名をだし、新みやぎ模試の県内1位も継続して獲得し、たった3名の中学1年生が定期テスト1位と2位、新みやぎ模試県内1位と2位になってくれました。
そこから段々と紹介で生徒が増えて、たった2名スタートだった最初の中学1年生の学年が20名に達し、10名以上の仙台一高と宮城二女の合格者が出せました。
のちに、定期テスト498点をたたき出し、学校の定期テスト、実力テストの全てにおいてずっと1位をとってくれた生徒が入塾し、先の学年に続いて20名以上の仙台一高と宮城二女、仙台二高の合格者を出すことが出来ました。
気が付けば、塾を移転して3年目、仙台一高を構成する生徒の出身中学で近隣中は全体の3位になっていました。
宮城二女でも上位になり、この地域の中学校は、宮城野区でも有数の進学校に変わり、麻布学院が24名のナンバー合格者を出した年にはついに仙台市内で仙台一高を構成する生徒の出身中学の1位に輝きました。
麻布学院が開設すると同時に、近隣中学に赴任された校長先生の改革も素晴らしい成果を上げてくれており、それと麻布学院の開設が重なったのも運が良かったと思います。
それ以来、麻布学院はナンバースクール合格者を毎年2桁だし、15年連続で新みやぎ模試の県内1位と定期テストの1位を獲得しています。
最近では近隣からだけではなく、上杉山中も増えてきました。
昨年度だけでも、宮城野中全学年定期テスト1位獲得。
東華中1位・3位・6位獲得
五城中1位・2位・4位・6位獲得
南小泉中1位・4位獲得
上杉山中1位獲得
東仙台中2位獲得
岩切中3位獲得
新みやぎ模試8回中4回 県内1位獲得 12月は1位2位のダブル獲得。
宮城ぜんけん模試全5回中 県内1位3回。
全学年県内1位獲得。
受験でもきっちりと2桁ナンバースクール合格者を出せました。
「大学病院で働く事は、本当に素晴らしいことです。でも、そうでない場所でも医師として学ぶべきことはたくさんある。どうか、そのことを覚えておいてください。」
塾を移転する前に、衝撃を受けたDr.コトーのセリフです。
これを聞いたとき、頭をガツンと殴られた気持ちになったんです。
だから原町に塾を移転しました。
仙台市で最下位の学力の学校を仙台で一番の学校にしたい。
私は塾業界に、勝ちたいとか負けたくないとか感じる人はいません。
そもそも、受験に勝ちも負けもなく、頑張っているのは生徒達であって我々はその手助けをしているにすぎません。
私が定期テスト1位や模試の県内1位にこだわるのは、15年間、その伝統を受け継いでくれた全ての塾生に応えなければならないからです。
伝統とはそういう重さです。
だから、毎回言いますが、生徒が1名でもいる塾は存在意義がある塾です。
私が負けたくない人は、この世に2人。創作の中に1人。
2人は私が塾業界に入る前の一般企業で出会った素晴らしい上司。
創作の中の人物がDr.コトーです。
このGW、Dr.コトーをDVDで見直しています。
そして自分のブログを見直してみると、私はいつの間にかDr.コトーではなくDr.Xのようなブログを書いているなと感じました。
私は人間だから沢山の失敗をおかしてしまいます。
「私、失敗しないので」とは絶対に言えません。
今回のGWで、自分の原点を思い出した感じがします。
地域で生徒の志望校を決まるのは間違いだ。
ただ自分にできることを一所懸命に、信頼とはすぐにつくられるものではなく、努力を続けて得られるもの。
100名200名の生徒は相手に出来なくとも、20名を、20名だからこそ一所懸命に。
数字と結果、実績は生徒が出したもので、全ては生徒の努力。
この学校を仙台で1位の学校に・・・
1度達成したのに、なぜ安穏としてしまったのか・・・
昨年の受験で、近隣中学の名前が仙台一高を構成する生徒の出身校上位から消えていました。
麻布学院は昨年、一昨年と仙台二高を基準にしていました。
それが悪いことだとは思いません。
二年間で個人塾ながらも仙台二高10名を合格させました。
しかし、それであるならば何故、宮城一高に合格した生徒達を仙台一高にまで引き上げられなかったのか。
近隣中学の名前が、高校名鑑の仙台一高のページから消えてしまうことをなぜ悔やんでいなかったのか。
このGWにそんなことを考えていました。
「大学病院で働く事は、本当に素晴らしいことです。でも、そうでない場所でも医師として学ぶべきことはたくさんある。どうか、そのことを覚えておいてください。」
Dr.コトーの言葉。
私はこの言葉のように、この地域から学んだことがあたくさんありました。
もう一度、目指してみます。
麻布学院の生徒達のほとんどを仙台一高と仙台二高へ。
来年には受験制度が変わります。
今年からはこの地域に麻布学院が争える塾が出来ました。
長年欲していたライバルです。
また1か出直します。
今度は生徒達が所属する全ての中学から仙台二高と仙台一高合格者を。
そして高校名鑑の仙台二高と仙台一高のページに、近隣中学の名前を載せてみせましょう。
宮城野中学、上杉山中学、東華中学、五城中学、南小泉中学、五橋中学、東仙台中学、附属中学、岩切中学、高砂中学、幸町中学。
全ての中学から3年以内に塾生を仙台二高と仙台一高へ。
この宮城野区原町の個人塾から。
麻布学院はこれからどこ中学在籍者でも歓迎いたします。
一緒に目指しましょう。仙台一高と仙台二高を。
麻布学院(宮城野区原町) 塾長ブログ 2018年5月3日