インサイダー・アウトサイダー理論

みなさん疑問に思いませんか?

ある同じ地域や、同じ学校が、何年間にもわたって学力が変わらないという現象を。

とある公立中学校は、毎年高いレベルの合格率を出し、逆にとある学校は、毎年低い水準の合格率にとどまる。

それが、何年たっても変化がない。

同じ公立中学校で、凄まじいほどの学力差が生まれます。

これは、地域の塾の差ではありません。

何故なら、塾は、もともと学力が高く、高い水準の高校に合格できる人数が多い学校が存在する場所に、集中して店舗展開を行っただけだからです。

同じ公立で、同じ立場の地方公務員の教員、受験ではなく、全員同じく公立小学校から持ち上がりの生徒。

本来、差はあまり出ないはずなのです。

しかし、その差は歴然と存在し、数年、いや数十年と引き継がれています。

これはなぜか?

 

 

社会学の中に「アウトサイダー」という考え方があります。

熟練された労働者は、新規労働者や、派遣労働者などの下の立場の同僚に対して、仕事内容や人間関係などの重要な情報は教えないという、「インサイダー、アウトサイダー理論」が有名です。

つまり、熟練されている労働者は、下の立場の人間が育つことにより、自分の立場が脅かされることを恐れ、下の者が成長することを阻害しようとするわけです。

そのような会社では、新人や中途採用者は全く育たず、給与面でも、低い水準になるため、良い人材は来なくなってしまいます。

そして、会社そのものがダメになってしまうという論理です。

 

少し、学力の話から逸れたように思えますが、この「アウトサイダー理論」が、学力に関わるコミュニティにも応用されると私は考えます。

 

つまり、集団心理の中で、学力の低い人間が多数をしめる場所では、立場の強い「インサイダー」がその人間たちになります。

逆に、少数の学力が高い人間は、「アウトサイダー」とされてしまうのです。

この「インサイダー、アウトサイダー理論」では、アウトサイダーは、インサイダーの生活にあこがれを持ちます。

逆に、インサイダーは、自分の生活が脅かされるのを嫌い、アウトサイダーの良い面を無くそうと、誘惑をしたり、否定しようとします。

その結果、学力の高い生徒は減少し、追いやられ、全体の学力が落ちていくのです。

これが、先輩後輩に受け継がれ、長年の学力低下に結びついてしまいます。

 

その長年の風習を打開するのは容易ではありません。

熱意のある教員や、学力意識の高い保護者が、その中で戦おうとしても、異分子として扱われ、徐々に声を上げることができなくなってしまうからです。

 

こういった地域や学校で、子どもや生徒を守るのは、本当に大変です。

 

では、どうすればいいのか?

それは、簡単なことなのです。

誰かが、「インサイダー」にとっての悪者の代表として、象徴的な存在になればいいだけです。

会社などでも、改革の時期に、外部から人間を迎え入れるのと同じことです。

そして、その人物が矢面にたつことで、少数派である、熱意のある教員や保護者も声を上げやすくなっていくので、劇的に学力は変化します。

そうして、劇的に変わった学校も、過去に多数存在します。

 

学力よりも大切な事があるという方もいるでしょう。

それは当たり前です。人間として、やってはいけないこと、やるべきことを教えるのは当然に優先されるべきです。

その上で考えてください。

学力の高くない学校は、常に「荒れている」というイメージが付きまとうことを。

将来の自分像が見えない環境では、今の自分を大切にできないからです。

 

学力は、自分の未来に直結する場合が多いので、今を大切に考えることができるのです。

将来に夢がある人間は、今の自分を大切にします。

 

夢であふれる学校は、荒れません。

野球選手でもサッカー選手でもいいのです。音楽家、芸術家、小説家、なんでもいいんです。

しかし、その門は狭く、才能や指導者、そして運にも左右されてしまいます。誰もが、その夢を持ち続けることはできません。

 

しかし、学力が関連する夢は、本人の努力と、応援する保護者、そして熱意ある指導者が連携すれば、一番叶う可能性がある未来像なのです。

 

この地域がいつまでも、将来の夢であふれる、努力する人間がたくさんいる場所であって欲しいといつも思っています。

将来のメジャーリーガー、金メダリスト、ワールドカップ代表、ショパンコンテスト優勝者がいてほしい。

その上で、将来のノーベル賞受賞者や、芥川賞、直木賞、ピューリッツァー賞の受賞者もいてほしい。

 

そういう未来に協力できるのなら、私は誰かにとっての「悪者」になってもかまわないと思っています。