先生と呼ばれる者の責任。

 

我々、塾の講師と言えど、先生と呼ばれる立場です。

先生と呼ばれる人間は、人を救うために存在する仕事です。

医者は人の命を救い、弁護士は人の人生を救い。政治家は国や自治体を救う。

そんな存在であるからこそ「先生」と呼ばれるのです。

 

では、我々塾講師や、学校の先生たちは何を救えばいいのか?

その答えは、生徒の未来を救うことだと私は思っています。

 

学校の先生にとって、生徒は、何十年のキャリアの中で、何千人の中の1人かもしれません。

塾にとっても、毎年、入塾してくる何百人の1人かもしれません。

麻布学院は個人塾ですから、そこまで人数は多くなくとも、毎年20人くらいの生徒はいます。

その中の1人だと言ってしまえばそうなるでしょう。

 

しかし、生徒や保護者からみれば、たった一人の存在であり、高校受験は、人生でたった1回の重みがある出来事です。

今まで私は、何人の未来を救ってきたのだろうといつも考えます。

何人の未来を救うことが出来なかったのだろう。

 

中には、私立高校になったとして、頑張れば大学受験で取り返すことができるとか、社会に出てからが勝負だと言う人もいます。

それは事実です。

 

しかし、生徒が思い描く未来が仙台一高だった場合、受験で落としてしまうということは、その生徒が思い描いた未来を救うことが出来なかったということです。

その未来を消してしまった責任があるはずです。

 

私は、職業は違えど、「Dr.コトー」や「ブラックジャックによろしく」など、1人の人間を救うために悩む物語を読んで、心が揺さぶられ、大手塾で責任ある立場を捨てて、麻布学院を開校しました。

そこには信念があったはずで、生徒の誰もが未来を諦めないでいられるよう、頑張って来たのです。

 

しかし、受験を重ねる度に、心の中に歪が産まれた気がします。

この「心の歪」に負けた時、麻布学院は存在価値を無くしてしまうのでしょう。

 

私は、この「心の歪」に負けたくないのです。

妥協や諦めに飲み込まれたくはないのです。

どの塾も、そして学校の先生たちも、皆がこの「心の歪」と戦っているのだと信じたいのです。

 

ですから、私は生徒の未来を救う立場の人間として、絶対に妥協もしなければ、諦めもしません。

それが、「先生」と呼ばれる者のあり方だと信じていますから。

他塾の講師たちも、学校の先生たちも、皆そうであると私は信じています。

 

私に出来る全ての事をやろう。

毎日毎日、そう思いながら生徒と関わっています。

今日できることの全てを。

 

麻布学院(宮城野区原町) 塾長ブログ 2017年2月2日